もう少し長文で記事的なもの
伊藤野枝の反面教師
2025.7.20
私は、伊藤野枝が好きだ。そして特に、彼女がお世話になった女性教師について書いたとある文章が好きだ。野枝には、よくしてくれた気弱な女性の教師がいたのだが、彼女は若くして自殺してしまった。「遺書の一部より」は野枝がその女教師になりきって想像で創作した遺書であり、そのほかにも「背負いきれぬ重荷]「嘘言と云ふことに就いての追想」でもこの教師について言及している。
私が伊藤野枝に惹かれるのは、他人とバチバチ衝突しながらも、嫌われながらも、しかし信念をもってわがままに生きた姿が自分と真反対な性格であるためだ。私の性格はというと、この野枝がお世話になった女教師と似ている。だからこそ、野枝が彼女の気持ちを代弁した文章を読んだときに胸を突かれるような思いがした。
まとめると、野枝は、女教師の気持ちをこんな感じで代弁している。「我慢したり、おとなしくいる自分に対して、世間は褒めてくる。そんなもの、何も嬉しくない。嬉しくないのに、やっぱりそれが安全だから、結局そこから逃れられないのだ。内面では違うのに、やっぱり周りに合わせて反抗せずにやり過ごしてしまうのだ。」
以下に、私が特に心に残った言葉を引用する。
「私は本当に弱いのです。私は反抗と云ふことを全まるで知りません。私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめます。私がどんなに苦しんでゐるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持です。ですけど不思議にも私はます/\をとなしく成らざるを得ません。やさしくならずにはゐられません。私は自分のぐずな事を悲しみながらます/\ぐずになつて行きます。私は悲しいそして無駄な努力ばかしを続けて来ました。」
伊藤野枝「遺書の一部」より
「彼女の死は、本当に、種々な事を考へさせます。彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地いくじなしだとも思ひます。けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。」
伊藤野枝「背負ひ切れぬ重荷」より
